山口真由「リベラルという病」を読む

こちらの本も、『ザ・ボイス そこまで言うか!』火曜日の宮崎哲弥さんの回にゲストとして登場した方のもの。

 

アメリカにおける、リベラリズム(自由主義)とコンサバティズム(保守主義)を取りあげている。その違いが、アメリカ人ひとりひとりの生き方に関わるものであること、リベラルかコンサバかの違いが判事の選択にまで関わること、リベラルとコンサバの家族観、そして日本におけるリベラリズムについて分析している。

リベラリズム=エリート主義

著者の山口真由さんは東大法学部卒。

財務官僚になった後、弁護士を経験してハーバード·ロースクールを卒業したという経歴の持ち主。文字どおりのエリートだ。

しかし、彼女の経歴とは裏腹に、この本はアメリカのエリートに対する痛烈な批判に満ちている。

「病」という刺激的な語が使われているのはタイトルだけだが、本文ではリベラリズムを「宗教」に例え、アメリカのエリートたちにとってリベラリズムという宗教が絶対的なものになっており、その教義に背いた言動をした場合どういう目に合うのか、ハーバード・ロースクールでの体験を元に記している。

日本にリベラリズムが根付かない理由

アメリカのリベラルとコンサバは、住む州も違うし読む新聞も違う。

昨年来のトランプ旋風によって、アメリカがこのようにリベラルとコンサバに分断された国家であることは、多くの日本人知ることとなった。

その意味では、”アメリカはリベラルとコンサバに別れているんですよ”という主張には目新しさはない。この本の売りは、そうしたコンサバとリベラルの分断が実際の法廷の場においてどう争われているのかという具体例が豊富なところ。

さすがロースクール出身という感じ。

こうした事例紹介がほとんどのなか、後半になって唐突に著者の主張が前面になる。

どうやら、山口さんは日本のリベラリズムにも批判的らしい。特に、民進党には舌鋒鋭く批判している。

というか、山口さんは日本にはリベラリズムが根付いていないと考えているようだ。

リベラリズムとコンサバティズムの間にある人間観の違いについて、山口さんは見事に要約している。

リベラルは、人間の理性がすべての困難を乗り越えると信じている。社会問題には、イデオロギーが最も表れやすい。生命倫理も、同性婚もリベラルは人間の選択を絶対的に信頼する。自分の人生を選び取る力が人間にはあ――それがリベラルの基本的な視座だ。

(中略)

対するコンサバには、自分への懐疑が常にあった。人知を越える大きな力の前では、人間の理性など空しいというのが、彼らの考えだろう。そのときどきで正しいと信じられることは、決して永遠ではない。だから、人は自然の前で謙虚でなければならない。(196ページ)

こう整理した上で、山口さんは、まさにこの人間観こそが日本にリベラリズムが根付かない要因なのだと指摘する。

私達日本人の底には、人知を越えるものへの畏怖が根付いているのではないか。明確な信仰や言葉の形は取らないものの、長い歴史の中で、自然への謙譲が育まれていったと考えても誤りではないだろう。(198ページ)

「人知を越えるものへの畏怖」があるゆえに、日本人には、人間の理性を絶対的なものとして捉えるリベラリズムが肌に合わないのだという指摘だ。

なるほどと思う文章だ。

日本人は反エリート主義か?

だが、ここで疑問が浮かぶ。

リベラリズムが根付いていないとすると、日本人はコンサバなのだろうか。素朴な実感では、そうだといえるだろう。戦後の日本において、保守政党がほとんどの政権を担ったという事実を考慮しても、日本人はコンサバティブであるというべきだ。

しかし、アメリカと日本では、同じコンサバでも様子が違う。

アメリカという国は、その建国の歴史からして、骨の髄までエリート嫌悪が染みついている。政府をつかさどるエリートは、最終的に自分を守ってくれないかもしれない。信頼できない人達に自分の安全をゆだねるよりも、自分で自分を守る力としての銃を要求するのは、そのためだ。(197ページ)

これは、アメリカのコンサバティストたちが銃規制に反対する理由を簡単に説明した一節だ。いったい、日本のコンサバティストたちは(ここではあえて保守主義者はというべきか)、ここまでの政府への懐疑を抱いているだろうか。

むしろ事態は逆だろう。

"親方、日の丸"という言葉に代表されるように、日本人は政府を信用している。あるいは、"お上のいうことには逆らえない"と嘆く時代劇の農民よろしく、政府への抵抗を初めから諦めている。かくいう私も、"政府が守ってくれないかもしれないから、武器を用意しよう"なんてことは考えたこともない。むしろ、非常時には政府がなんとかしてくれると油断しきっている。

はたして、日本とアメリカのコンサバティストの間にある精神性の違いは、どこに起因するのか。

残念ながら、著者はこの点を深く考察してはいないのだが、私は、この違いは天皇の存在にあると思う。

親天皇主義・日本

日本人にとっての「人知を越えるもの」とはすなわち天皇ではないか。

アメリカ人にエリート嫌悪が染みついているとすれば、日本人には天皇への愛着が染みついている。だからこそ、日本のコンサバは本質的な意味で、アメリカのコンサバのように反権力にならないのだ。

なぜなら、それがお飾りであったとしても、日本の権力の中心あるいは最高位には天皇がいたし、いまもいるのだから。

摂関政治にせよ幕府にせよ、彼らの権威とはすなわち天皇の権威であり、あくまで天皇の代理人として政権を担ったにすぎない。

したがって、日本のコンサバは、アメリカのコンサバのように独立心を持った反エリートや反権力ではないのだ。

いや、コンサバだけではない。

昨今では、"私こそが真の保守であり、安倍政権は保守ではない"と語る野党政治家も多い。

それどころか、共産党のような明確な左翼政党までが、明文化された法律ではなく、"陛下のお気持ち"を推し量って生前退位に賛成したり、"陛下のお言葉"を引き合いに出して政権を批判したりする。

だから、日本にリベラリズムが根付かないのは当然だろう。

我々は理性よりも天皇を信じる民でり、天皇とは神道をつかさどる、文字通りの宗教王なのだから。 

天皇という宗教を奉じる日本において、いまさらリベラリズムという異教に用はないということだ。

 

と、こうした感じで、議論を深めれば日本文化論にまでなりそうな本だった。